宮沢:3.11以降、旧来の演劇人は原発問題を受けてどういう言語で表現すればいいか悩んでいるのに、若い世代は屈託なく表現をしつづけています。作品を観ると、そのほうが現代的だろうという気もしてくる。とくに20代と30代の間に決定的な断層が走っています。
青山:なぜその世代で断絶されるのでしょう?
宮沢:それは、チェルノブイリを知っているかどうかだと思いますね。
青山:なるほど。僕もチェルノブイリは非常にインパクトはあったけれど、それほど意識はしてなかったかな。むしろアンドレイ・タルコフスキーが『ストーカー』(1979)を撮りましたよね。あれはまさにチェルノブイリを予言するかのような作品でした。それに対して我々は、福島を予言するような作品を作ることができなかったという意識を強く持ってしまったのかもしれません。映画を昔のように観に行かなくなったのも、映画がいろんなことをやりそびれているからかもしれません。演劇は直接/間接に関わらず、身体で3.11以降を反映せざるをえないじゃないですか。
宮沢:タルコフスキーの『ストーカー』は僕もそのことを強く感じたんですね。予言だと。ただ、そのことを話してくれたのは青山さんが初めてかもしれない。いままでそれを口にしてもみんな、そうかなって、同意を得られなかったし、そう語る人はほとんどいなかった。しかし、1986年の時点で、チェルノブイリをいまの福島のように見れたかというと見れなかったと思う。だからすぐに忘れてしまった。でもいまになって、忘れてしまったことを後悔しています。出来事は1メートル離れるだけで見えなくなる。つねに我々は出来事を目撃できない。でも想像することはできるはずです。だからこそ少なくともそれを言葉にしたり、デモがあれば歩こうと思う。何十年ぶりかにデモに参加して、歩くことで身体的に知ることがあると強く感じました。
3.11を経て、舞台芸術は何を語ることができるのか? Vol.1 宮沢章夫(劇作家)と青山真治(映画監督)が語る3.11以降の演劇(2/3)