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だからこれは偶発それ自体なのではない。セレンディピティは「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」とがうまく出会ったときにおこっているというべきなのである。
「やってくる偶然」は自分では律していない。向こうからやってくる。かつてメーテルリンクがさかんに強調したことだ(68夜)。一方、「迎えにいく偶然」には自分の意図や意思がいる。意図や意思の持続がいる。意図をもって偶然を迎えにいかなければならず、それゆえこれはふだんから準備していなければならない。
その意図や意思には、自分が何を求めているのかということを試行錯誤したプロセスをトレースしておくという努力がともなっている。これが「迎えにいく偶然」だ。このとき、ふいに「やってくる偶然」に出会って、格別のセレンディピティが生じる。これを澤泉は「偶察力」と言ってもいいだろうと書いている。なるほど、この訳語は近い。たしかにセレンディピティには偶察力が動いている。
(中略)
実はホレス・ウォルポールはセレンディピティとともに、もうひとつの重要な言葉を提案していた。「サガシティ」(sagacity)だ。
(中略)
サガシティは分析や省察ではない。何かにふいに気がつくことだ。気がついて、自分が立ち向かっている全貌や方向や方法がパッと見えることである。たんに気がつくのではなく、気がつこうとしていた気持ちや意図や気分のヴィークルに乗って、“何か”の一事が万事につながっていくことをいう。また、そうなるにはその一事に着目できるだけの、ソフトアイや周辺観察性が動いていなければならないことをいう。それがサガシティで、だからこそ察知力なのである。
これで、おおまかなことはつかめたと思う。「偶察力セレンディピティ」と「察知力サガシティ」は、二つでひとつのはたらきをするわけだ。
それでは、そのはたらきが何をもたらすかといえば、ここがいよいよ核心点に近くなるのだが、ずばり、「アブダクション」をもたらしている。仮説能力が形成されるのだ。
(中略)
ごく平たくいえば、アブダクションとは推察・推感をその行く末を見据えて思考のシナリオを先取りできる編集方法のことをいう。仕事をしていたり、何かを企画しているときに、この先取りの編集方法がどのようにはたらくかが重要なのである。
もう少し説明すれば、こうなろう。
そもそも予測であれ、ひらめきであれ、シナリオの創造であれ、なんらかの先取りができるためには、自分がいま立っている発想や思索に多少の“ゆるみ”が生じる必要がある。
(中略)
むしろ自分の“いま”に、不足や曖昧やまちがいや過度があることを許容したほうがいいはずだ。
そうすると、進行中の作業や発想に、それをさらに進めるうえでの発想モデルや思考モデルが自分には“ない”ことに気がつく。これは自分の発想力や企画力や思考力に展望性や可塑性がないということだから、がっかりしてしまうこともある。しかし、がっかりしているのではまずい。なぜなら、自分に発想モデルや思考モデルがないということは、いいかえれば、ここが肝心なのだが、そこに「欠けたモデル」があったことに気がつけばいいということなのだ。
このとき、この「欠けたモデル」に当たる“何か”が、向こうからやってくるときがある。これが「やってくる偶然」だ。これを「欠けたモデル」をもっている自分が「迎えにいく偶然」の鍵か鍵穴かの片われと出会えたらしいと思えたとき、そこにセレンディピティがおこるわけである。
それは、まさに仮説形成能力としてのアブダクションの成立でもあった。また、「偶察力セレンディピティ」と「察知力サガシティ」が互いに手をたずさえて、自分が発想や構想を陥穽させる“何か”を先取りしたことでもあった。
松岡正剛の千夜千冊/1304夜 澤泉重一・片井修 『セレンディピティの探求』